2018年02月01日

[112] 今年の目標 は‘ 天野光信の ’卒業'

 化学、そして物理...それから
 私がGHSで化学を教えるようになった頃のこと。
当時私は医学部の5年生。といっても再入学だから30過ぎた頃か。
GHSが昼間部生をとる「予備校」となってから2-3年だったか、
我が東大武道系サークルの「顧問」(という肩書き)であった村田代表から、
部の方に打診があり、
「化学の講師はいるのだが、その補助として教えに来てくれる学生はいないだろうか」と。
全学のサークルなので四年生で卒業していくのだが、私は5年生でもつづけていたこともあり、
役職は「助監督」であり指導する立場にあった。部員は50〜60名はいたであろう。
部員たちが皆で話合った末の結論が「助監督を推薦します」!(◎_◎;)というもので、
当時の監督から「部員の総意」ということで私が派遣されることになったわけである。
「お前ら、これだけ東大生いるんだから、よりにもよってなんで忙しいオレの背中を押すんだ!!」
と苦笑いしたが、振り返ってみればそれがその後GHSに長くかかわるようになる端緒だった。
・・・・・・『体系化学』も『漢文解析』もそこから始まったのであるから、
当時の後輩たちの「英断」( ´ ▽ ` )ノ に今更ながらも、感謝するべきだろう。

私は医学部を卒業してもすぐに臨床にすすまず、大学院に進んだので
GHSはそのまま継続することとなったのだが、気がつくとメインだったその講師は去り、
私が化学のすべてを任される講師として教壇に立っていた。こちらは「生徒の総意」である。
(もっとも、正確にはGHSの教室はフラットなので「教壇」はない)
大学院生としての5年ほどの間は、体系化学への模索と実践がつづくのであるが、
物理への関わりが生まれる。それもまた、物理ができるはずの東大理学部の院生の講師が、
「物理がわからないものの気持ちがわからない」つまり、できるが教えることはできない、
という事態となり、やはりまた「生徒の総意」で、物理の個別的指導からはじまり、
やがて気がつけば、自然な成り行きで物理の授業をするようになっていた。

10余年後、体系化学、体系物理という形になっていく道はこうやって始まったのである。

 化学・物理...いや実は 
 このように、GHSで化学や物理にかかわるようになったのは、わたしにとっては状況の産物、
成り行きとしてこういう結果になったにすぎないといえる。
実のところ、わたしがもっとも好きで、得意で、得点源であったのは英語である。
すでに、京大の経済学部に入る時点で、受験英語レベルはかなり極めており、
やるものがなくなって、英語の講師のすすめで英検一級の問題集をやっていたくらいである。
だから、「やりたいのは英語」なのであるが、「やるべきなのは理科」なのだった。

そして世紀が改ままらんとする2000年、大学を離れ、さらに東京を離れ、信州の地で、
ようやく医師としてのキャリアをスタートすることとなった。
そう、これもいろいろな偶然の出会いと状況の産物で、長野行きとなった。
自分が選んだのではない。たまたま、そこでやってみないかというオファーがあっただけ。
だから「なぜ長野なの?」という質問をよくされるが、
 実際、長野には縁もゆかりも、親もツテもない。
下関、京都、東京と暮らして、次に長野になった、というにすぎない。

ただ、こうやってみるとGHSでの理科についても、住処にしても、
自分から手を挙げて選んだのではないくせに、その中で幸せを感じることができるのだから、
呑気というかお得な資質(たち)なのかもしれない。

ただ、長野に来てもいいと思った理由の一つは、大学生の時から夏合宿といえば、
ほぼ信州のどこか山の中での合宿であったから、親近感があったからとはいえる。
でも、そんなのは、どんな大学のサークルだって同じだ、といえばそうだ。

長野がよい、と思ったもう一つは、新幹線と高速道路が通じていたということが大きい。
長野オリンピックのおかげで、両者が長野とつながった。
つまり、GHSをつづける条件があったことだ。この時期になると、GHSでの時間は、
わたしにとっては代え難いものとなっており、ここで'卒業'する気などさらさらなかった。
もし、オファーが長野市ではなく、松本市であったなら、もしかしたら断ったかもしれない。

かくして、週末は長野から東京へと通うスタイルがそこから10年余にわたってつづくことになる。

今年の目標 は‘ 天野光信の ’卒業'というのは
 といっても、GHSからの卒業ではない。天野光信の'卒業'である。
2008年の『体系化学』の時には、文字通り孤独な行軍であった。
GHSの独創のメソッドゆえに、指導者レベルでは、誰もわかってもらえる人がいなかった。
そして、another decade……
村田代表のブログにも取り上げられたように、体系化学、物理の薫陶をうけたGHSの卒生が
各分野で活躍するだけでなく、GHSでも教えることをつづける人材が得られるようになった。
かつて、「化学は講師ごとに教え方、解き方が違うものだ」と嘯いた化学の講師がいたが、
GHSの化学も物理も、ほぼ技術化されているので、誰が教えようが、解き方は同じになる。
そこに、各人の個性とオーラを被せればよいだけだ。

昔どこかで、「天野の化学」というような言い方は、受験参考書にはつきものではあるが、
わたしは絶対にイヤだ、というようなことを書いたと思うが、化学や物理という知識を
法則を発見したわけでもない者が、自分の名前を冠するなどあってはならないということなのだが、
さらにいえば、わたしの手を離れたとしても、志ある者が十全に受け継いで行けるだけの
体系化と技術化を果たしたと思ったからである。

これらの意味を込めて、できるだけ化学も物理も、後進に任せたい、好きなようにやらせたい
と思っている。関わりは必要最小限でいい。「補助」でよいのだと思い定めている。

だって、かつて、GHSで好きなようにやらせてもらえたからこそ、
従来のあり方、すなわち、「常識」・「常道」・「定石」にとらわれることなく、
自由な創造ができたのである。
それを常に見守り、支えていただいた村田代表の懐の深さゆえである。

これが「天野光信の'卒業'宣言」の真意である。

’卒後の進路'は・・・
 「'卒業'したら、その後、何をするの?」と問いたい人もあることだろう。
・・・まあ、今回は長くなったので、それについては稿を改めて、ということにしたい。《続》

posted by Koujin Amano at 14:36| 体系化学